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クボデラ株式会社社長

プロフィール「使命の物語」

なぜ、わたし 窪寺伸浩が【信じる】を使命と掲げているのか?
わたしのプロフィール「使命の物語」をお読みください。

はじめまして!
「一生懸命に、愛情込めて作ったんだな」と言われる、大田区で工務店を経営している窪寺伸浩(くぼでらのぶひろ)です。

 

幼少の頃から父が、仕事のことを語りかけてくれました。人生を引き受ける覚悟、信念を持って生きること。

 

父から受け継いだものを、わたしが今度、世の中にお返ししていきたいと思っています。

クボデラ株式会社社長

なぜわたしが【信じる】を使命に掲げているのか、
そのわけを聴いていただけますか?

なぜわたしが【信じる】を使命に
掲げている
のか、
そのわけを聴いていただけますか?

戦後、東京は大空襲で、焼け野原。人々が住むところがないとき、米屋だった祖父が「材木屋をやろう!」と言って、父と一緒に作ったのが、クボデラ。昭和20年(1945年)のことです。

”青空と廃墟の東京に、住むところをつくる”

それが、祖父と父の創業の想いです。

お父さん、大変なんだなぁ。助けてあげたい」

ところが、会社創業の1ケ月後、祖父が急に亡くなります。父、18歳。

「材木屋をやっていかなければいけない」という想いで、自分の父親の死に顔を見ても泣けなかった。

父は、7歳のときに祖父のもとに養子に入りました。そんな中、実の父親も身内も誰も助けてくれない。「クボデラは長いことないな…」と周りではささやかれていました。

材木のことはわからない。そればかりか、押し入れを開けると、どっと借用書が出てくる。ゼロからではなく、借金というマイナスからのスタート。

それでも、”人がやっていないことをやろう”と大手商社も扱わない台湾檜の輸入を始めます。大学の先生に、台湾檜のよさを書いてもらった文章を手に、日本に広める活動をしました。

幼稚園のころから、父は、わたしに、このような話をよくしてくれました。その度に、「お父さん、一生懸命なんだなぁ。頑張っていたんだなぁ」と強く思ったものでした。

父の努力の結果、昭和30年代(1960年代)には、台湾檜の輸入で日本一になりました。その材木は、箱根の関所、熱田神宮、高尾山などでも使われたのです。「台湾檜のクボデラ」、「クボデラの台檜」と呼ばれ一時代を作りあげました。

若き日の父の写真

若き日の父の写真

「ワイシャツを出せ。これから会社に行く

7歳で養子になった父は、息子である長男が、母にひどい言葉を吐いているのを聴いて、「家族って、いいなぁ」と思ったそうです。養子の父は、家族の中でも遠慮がち。思ったことを言える親子の関係にあこがれたそうです。

わたしも子どもながらに、父がいつも心から笑っていないことが、気になっていました。どこか「さびしそうだなぁ…」と感じていたのです。

ある日、わたしが行くと、父は、材木の切れ端を大きな焼却炉で燃やしながら、グチをこぼしたのです。

「社員は、お父さんのいうことを、なかなかわかってくれないんだよなぁ」

その言葉を聞いたとき、

「お父さん、一人で大変なんだなぁ。助けてあげたい。将来、絶対、お父さんの秘書になる」

と強く決心したのです。

家族の集合写真

家族の集合写真

父の会社は、自宅と同じ敷地内にありました。幼稚園のころ、会社にいる父のもとに新聞や野菜ジュースを持っていくことが、わたしの日課でした。

父は、わたしが行くと、いつも語りかけるように、仕事のこと、家族のことを話してくれました。

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「あなたのお父さんは、すごい

そんな高校生活の中で出会ったのが、演劇です。気の合う仲間と劇団を作り、自作自演をしていました。

何者かになれる、自分の描いた物語の中で、自分を演じることができる。好きな女の子をヒロインにした脚本を書いて、くどく。一緒に稽古して、一緒に舞台に立つ。

演劇が、もう一度人生を前向きに生きるキッカケになりました。

演劇に取り組んでいた学生時代

演劇に取り組んでいた学生時代

中学1年のときに、父が亡くなり、大きな喪失感で、なにをやってもつまらない。太陽のような存在であり、「助けてあげたい!」と思っていた父がいなくなり、目指すものがなくなってしまいました。

人生、なにをしたらいいのか、わからない…
自分が、何者なのか、わからない…
 

わたしが小学6年のころ、父は病気で入院生活に入りました。病室の中でも仕事をし、手形のサインも自分でやっていました。

死の直前、父は、病気で衰弱しているにも関わらず、

「ワイシャツを出せ。これから会社に行く」

と母や家族に命じました。

なにがなんでも、仕事をやる父の執念だけを感じ、驚かされました。

もちろん会社に行ける訳はないのですが、6月11日の明け方、父は亡くなりました。

祖父が亡くなったとき父は泣けなかったという話を聴いていたので、私も”泣いちゃいけない”と思い、泣けなかったのです。

母と幼き日の私たち兄弟

母と幼き日の私たち兄弟

大学2年のとき、母が社長を継いだ会社を閉めることになりました。さびしい気持ちだけでなく、会社や事業に対する興味もなくなってしまいました。

同時に、なんのために働くのか、という目的も見失ってしまったのです。

大学時代は、文芸誌を発行したり、教員の資格を取ったりしましたが、就職活動はしませんでした。

就職浪人をしていた年の夏、台湾に旅行に行く機会がありました。当時、父が取引をしていた台湾の大企業の社長にお会いすることができました。

「あなたのお父さんは、すごい。素晴らしい。小さな会社なのに、うちのような大きな会社と取引して、大したもんだ」

 

と、台湾の大会社の社長が、父のことを大絶賛するのです。

この言葉を聴いたとき、わたしは、

 

「クボデラの灯を消すのは、しのびない。材木屋になりたい」

 

そう強く思ったのです。
そして、日本に帰るなり、修業できる木材業者を探しました。

台湾にて

台湾にて

「仕事の二人の師

「踏まれても、踏まれても、雑草のように伸びていく」バイタリティ。

毎日毎日、丁寧にお客さんに手紙を書き続ける熱い想いで、ご縁を大切にする

休みの日も、社員を連れて、山林の下草狩りに出かける気魄。

市場という中で材木に込められた産地業者の熱い思いと流通業者のメシの糧とする材木の重要性を、2年間、木を運ぶ中から教えていただきました。

学生時代の思い出

学生時代の思い出

わたしには、二人の仕事の師がいます。

一人は、就職浪人ののちに就職した丸宇木材市売(株)の山崎常作さん。

もう一人は、マルトミホームの前身、丸冨建設(株)の冨田辰雄さん。

山崎さんは、普段からジャンパー姿でかっこつけない。なにごとにも一生懸命な人。

その後26歳のときに、クボデラ(有)に入社しました。父が作った(株)クボデラを継承しようとしたあと、番頭3人で再開した会社です。

ところが、クボデラ(有)に入ったはいいが、なにもわからない。売上も上げられない。

「このままでやっていけるのか…」

と、自暴自棄になったり、不安なときに出会ったのが、丸冨建設(株)の冨田辰雄さんです。

「材木屋だけやっていても利益が上がらない。材木は、住宅に使うことで付加価値が上がる」

 

「住まいは、人間にとって最も影響力を持つ身近で大切な生活環境である。だから、目に見えて手に触れるところに木材を使わなければならないのだ」

 

冨田さんに、このように教わり、いつかは住宅をやりたいと思うようになりました。

33歳のときに、クボデラ(有)の当時の社長から社長の座を譲られました。やっと、社長を任せてもいい、と思ってもらえるようになったのです。

社長になりまず目標として掲げたのが、売上を2億円から4億円にすること。

やろう!と思ったことを、すべて一生懸命やりました。とにかく、無我夢中でした。

結果、毎年売上がアップし、6年で8億円までなりました。

社長になって10年後の43歳のとき、後継者がいないということで、冨田さんより丸冨建設を事業継承しました。これで、念願の材木と建築という2本柱が出来上がりました。

加工前の原木と

加工前の原木と

「なぜ、私が【信じる】を使命と掲げているのか?」

社長になって6年で売上8億円まで上げてから、急に不安になり、行動にブレーキがかかるようになりました。売上も伸び悩み。材木業界もかげりが見えてきました。

 

2011年、49歳のとき、東日本大震災が起きました。

 

その年に、わたしの会社にも衝撃的な出来事が起きました。ある会社の4,500万円の手形が不渡りになったのです。相手の社長のことを、もっと経営を考えた頭のいい人だと思っていたのに、責任感のない人だった。心の底では、信じ切れていないのに売上だけ考えて、安易に売っていた。甘かった。

一旦、不渡手形をつかまされると、取引業者は、材木を売ってくれなくなったのです。与信に値しない会社とみられたのです。

 

「もうだめかなぁ…つぶれるかなぁ…
このまま会社をやっていてもなぁ…会社やめるか…」

 

喪失感で、とことん落ち込みました。

一方で、「こんなことで、つぶれたくない」という経営者としての想いもありました。

ある問屋に取引を断られたとき、「クボデラと取引しておけばよかった、と言われるようにがんばります」と言い切りました。

一方で、わたしのことを信頼して、取引を続けてくれた会社もあったのです。自分のことを信じてくれる人がいる、ということをあらためて認識しました。そのことが、逃げない、あきらめない気持ちを生んでくれたのです。

 

そこで、あらためて考えることがありました。

 

ただ、時流に乗ったままで、自分の会社がどこに行きたいのか、どうなりたいのか、考えてこなかったことを痛感したのです。よくわからないことを放置したまま、なりゆきでやってきたのです。

 

そして、自分を見つめる中で、自分を信じる拠り所がないことに気づきました。
そう、わたしには、強く信じることが欠けていたのです。

 

そこで、わたしは、【信じる】を使命と掲げることにしました。

 

経営塾やビジネス勉強会に参加し、必死に勉強し、自分を見つめなおしました。自分が【信じる】道はなにか、探求しました。

その結果見えてきたことが、「父の遺志を受け継ぐ」ということです。

”東京の焼け野原に人々が住むところをつくる”という父の思いの原点に帰ろう、という考えにたどり着きました。あらためて、材木を売るだけでなく、住むところをつくる、という思いを強くしました。

 

自分が【信じる】道が見えると、お客さんとの会話も変わってきたのです。

あるお客さんが予算のことで悩み始めたとき、「必要なお金はもらうけど、それ以上のものを私は提供します」と自信を持って言えたのです。

それを聞いたお客さんから、このように言われたのです。

 

「それ以上のものって言うから、一生懸命に作ってくれるんだっていう想いを感じました」

「自分たちがやっていることを信じて、一生懸命に、愛情込めて作ったんだなと、ストレートに伝わってきました」

「木の良さをとことん知っている会社だから、お任せしました」

木材の価値がわかり、住みよいところを提供できるようになったのです。

「畳よりこの木の床で寝てるのが、凄?く気持ち良くって」

「家族みんなが集まる。この部屋がとても落ち着く、居心地がいい」

「この家で一生終わりたいな」

このようによろこんでいただけると、なによりうれしいです。

「今あるものをリフォームして、どうしたら住みよい家になるか、心配で…」

「家を作るにはそれなりの予算がかかる。それを削ると、安い値段で安いなりの家が出来上がるし…」

「子どもたちがのびのびできる一番いい環境にしたいけど…」

このようなことで悩み、あきらめてしまいそうな方に、「工夫をすれば、大丈夫ですよ。わたしを信じてください」ということをお伝えしていきたいです。

わたしが中学一年のときに、父が亡くなりました。


最後に、いま中学一年の息子へ

「人間は、いつ死ぬかわからない。
おまえが、大人になる前に、お父さんは死ぬかもしれない。
どんなことがあっても、自分を信じて行って欲しい」

窪寺 伸浩

お客様の笑顔と共に

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